- 建築年代
- 明治34年(1901年)
- 建築様式
- 木造寄棟造 茅葺 西端に式台玄関
- 当初は小作人を抱えて農業を営む家の所有であった。昭和39年に芝浦工業大学工学部教授であった齋藤雄三氏が入手し、住居とするだけでなく、大学の学生たちを住まわせる「松戸寮」としても利用した
- 庭園は、竹林や梅、松などをはじめとする四季折々の植物であふれる 近代初頭の地域の景観を今に伝えている
- 茅葺で、式台があるが、玄関に小屋根が付いていない、江戸時代からの農家の標準的な建築 明治末期から大正になると、屋根は瓦葺になり、玄関に瓦葺の小屋根が付くようになる 式台玄関の写真は旧澁谷家にあります
- 富津市の加藤家、芝山の伊藤家、袖ケ浦市の安藤家、市川市の後藤家と比べてみると面白い 日本民家の江戸時代から昭和初期までの変遷が分かってくるであろう
- ちなみに、瓦葺に関しては、江戸時代は農家は茅葺であった。人口密集地帯であった江戸は、火災の延焼を防ぐため町家に瓦葺が認められていた。武士の家以外では、寺社も瓦が認められていた。明治になって、一般庶民にも瓦が認められるようになったが、三州瓦職人などが、全国に移住し、各地で瓦用の土を見つけ瓦を造るようになったのは明治中頃のことである。瓦は重いので、鉄道が普及しないとなかなか遠方へ運ぶことができなかった。
- 庶民の家で、明治中頃以降の瓦が残っていれば、その地で最古の瓦として文化財的価値がある。当時は屋根に土を敷き、その上に置いてあるだけの瓦葺であった。土は、荒木田土が有名。当時は無地瓦と呼ばれた。登録有形文化財廣瀬家では、明治24年の無地瓦が約700枚保存されている。無地瓦については、お知らせの中の、「2025年9月28日 富津市金谷の鈴木家の明治35年(1902)の房州石の石蔵のお話」の中で、詳しく説明しています。
- 洋風の建物などで、赤い瓦が使われるようになったのは、昭和4年からである。
- 写真提供者
- 神谷 繁樹 様