お知らせ

鈴木家見学会の写真をいただきました

 鈴木家の住宅は、黒潮文化の影響があると考えられると前に述べました。今回お送りいただいた写真から、黒潮文化との共通性を見てみたいと思います。沖縄は毎年強い台風にさらされるので、敷地を石塀で囲っている。沖縄は海岸に転がっている丸い自然石を積むので目地の統一などはない。鈴木家のこの石塀は房州石を積んでいるが、目地の統一がなく、見てくれを気にしない積み方は、沖縄に近いとも考えられる。大谷石の石垣でこのような歪んだ石の積み方は見たことがない。
 石垣の上に植物が見えているが、石垣の後ろに土を入れて植物を植えているのだろう。そうすることで地震から石垣の倒壊を防いでいるのだろう。防風の効果も上がる。
 植物の中にはトベラの木がたくさんあった。トベラは、枝葉を切ると悪臭を発するため、鬼を払う魔よけとして戸口に掲げられた風習があったことから「扉の木」とよばれ、これが転訛してトベラとなった植物である。門の周辺にトベラが多いのは、魔よけの意味で植えられたのではなかろうか。昔の人は、門扉の代わりにトベラで悪魔の侵入を防いでいたのかもしれない。

 沖縄の観光案内を見ると、「民家へと続く門には門扉がない。」と書いてある。鈴木家の石の門にも門扉がない、この点で沖縄と共通している。さらに、「門を入ると開放的な空間が広がる。」と書いてある。この点も共通である。石蔵の前に豚舎のようなものがあるのも共通している。
 中央にそびえる木はヤシである。その左右の黒っぽく見える高さ3mくらいの木はソテツである。ソテツは九州南部から南西諸島、台湾、中国南部(福建省)に分布する絶滅危惧種の植物であるから、まさに黒潮の流れるところに生息する植物である。ここにデイゴの赤い花が咲いていれば、沖縄の景色と言われても信じてしまうであろう。
 沖縄では、門を入ると風よけと視線よけのヒンプンと呼ばれる石の衝立(ついたて)があるが、ここではヤシの木がその位置に立っている。ヤシは熱帯・亜熱帯・温帯の植物である。ヤシの木の周りの低木では目隠しにならないが、昔はもっと背の高い木が植えてあって、ヒンプンの役割をしていたとも考えられる。あるいは、今の時代の人が短く刈り込んだのかもしれない。

 主屋の入口の右側に瓦葺の木戸が見える(矢印)。そこから右の写真の中庭(和風庭園)に入っていける

 木戸を入るとすぐ左に新しく増築した白い建物が見える。この建物は、石段を上がってガラス戸を開ければ室内に入れるようになっている。
 庭の敷石を伝わってゆけば、自然と主室の縁側の前の大きな石に行きつき、そこから主室に入ることができる。
 沖縄の観光案内には、「縁側は主だった部屋に面しているため、家の主も客人も中庭から家の各部屋に上がれるようになっている。」「中庭と屋内をゆるやかにつないでいる。」と書かれている。鈴木家の中庭(和風庭園)も、面する部屋に直接入れるようになっている。沖縄と同じ民家のつくりをしている。観光案内には、「厳しい自然と共生することを前提とした建築と「区切り」や「仕切り」といった概念を感じさせない、おおらかな導線・住空間が沖縄民家の特色である。」と書かれているが、まさにこの鈴木家の建物の特色と一致している。
 このように、鈴木家の石垣・門・門の中の空間・ヒンプン・中庭と各部屋との関係などすべてにおいて沖縄民家の特色を有している。鈴木家は黒潮文化を受け継ぐ房総半島の家と言っていいであろう。敷地全体が黒潮文化の文化財的価値を有する名勝である。
 もう一つ沖縄と同じことがあります。明治35年の蔵の瓦はすべて漆喰で風で飛ばないように固定されています。沖縄の民家も同じです。
 主屋は昭和の建築なので、瓦の葺き方が明治時代とは違うので、漆喰で固定していません。漆喰の必要がない時代になったということです。

 日本を代表する左官職人として国内外で活躍する久住有生(くすみなおき)氏。兵庫県淡路島、祖父の代から続く左官の家に、1972年に生まれた久住氏は、3歳で初めて鏝(こて)を握った。幼少の頃から名工な父の下で左官の訓練を重ね、華道の先生である母からは日常生活の中で美意識を吸収した。
 高校3年生の夏、スペインでアントニ・ガウディの建築を見て、その存在感に圧倒されると同時に、細部まで計算しつくされた建築の美しさを左官でも表現できるのかという試みに挑みたいと思い、左官職人になることを決意した。日本各地の親方について修行し、施工経験を積み、2009年、左官株式会社を設立。現在は伝統建築物の修復、復元作業のほか、商業施設や教育関連施設、個人邸の内装・外装など幅広く手がける。
 また、国内外の展覧会で大型の彫刻作品などを発表し、2016年には、国連日本加盟60周年記念インスタレーションをニューヨークの国連本部で製作した。個展では、建築の壁とは異なる額装による表現にも取り組んでいる。これらの評価を得て、G7広島サミット2023の会場施工にも携わる。

 鈴木家の井戸は不思議な井戸である。大きな房州石の真ん中をくりぬいて穴をあけ、井戸枠にしている。普通は、長方形の石を井桁に組んで四角い井戸枠にする。どうしてこのようなものを造ったのであろうか。しかも、中をのぞくと地中部分も長方形の房州石が見えている。これも、左の絵のように丸い石を積んでゆくのが普通である。

 上の左の写真は、井戸小屋全体の写真である。竹製の井戸蓋がのっている部分が井戸枠の部分である。井戸枠よりもさらに大きな場所を房州石で囲っている。普通は、井戸に接続して洗濯・食器洗い・野菜洗いなどの場所として流し(外流し)が付いているが、この大きい囲いの中でやっていたのであろうか。流しであれば排水する施設やどぶがあるはずであるが、そのようなものも見当たらない。ただ単に水を汲んでいただけであったのか。不思議である。
 全国的にはこのような造りの井戸は珍しいのではなかろうか。房州石の産地金谷では、このような井戸がほかにも残っているのだろうか。昭和初期の築造だそうだが、もっと古い時代の井戸はどうなっているのだろうか。いろいろなことを空想させてくれる面白い井戸である。

 関東大震災・大正12年(1923)で倒壊した建物についていた鬼瓦。周りの木戸や石、ユリの茎と比較して大きさが感じられるでしょうか。巨大です。
            この項はこれにて終了です。

                 写真提供者  千葉県建築士会写真班、鈴木家

房州石についていろいろ書いてきましたので、大谷石についてもとりあえず写真を出しておきます。詳しい解説が見つかれば補足してゆきます。

 20年くらい前に、大谷石の産地を見学に行ったときにいただいた絵ハガキです。右に見える長屋門は石造りで、明治9年1876建築の貼石造りと書いてあります。貼り石とあるので、石を積んだ上にきれいな石の板を漆喰で貼ったのでしょうか。
 目地がくっきり見えていますが、なまこ壁ほどではありませんが、石が落ちないように厚く塗っているようです。

 上の写真の長屋門の左に小さく見えるのがこの旧乾燥小屋で、大正後期建築の積石造りと書いてあります。
 貼り石ではないので、目地は長屋門のように漆喰で盛り上がっていません。瓦や鬼瓦は質素なものに見えます。
 鈴木家と違うのは石の門には門扉があります。

 写真左手の奥↑に屋根だけ小さく見えているのが石蔵です。江戸後期建築の貼石造りです。この建物だけ棟瓦を何段にも積み上げ、大きな鬼瓦を付けています。この点鈴木家の石蔵と似ていますが、表面は貼り石で、漆喰で塗っていません。海に近い鈴木家と宇都宮の日光に近い山沿いの小野口家の違いでしょう。

 左の建物は旧堆肥舎で、明治後期の建築の積石造りです。どの建物も石の美しさを前面に出していて、屋根は石蔵以外質素です。右側の写真は、小野口家の石塀です。200メートルも続く長い石塀で、明治期の建造と記されています。どの建築物も、目地のラインが几帳面なまでに揃っていて美しいです。小野口家の建物は、沖縄や鈴木家などとは違い、ヨーロッパの石造建築を見ているような雰囲気です。

絵ハガキの最後には、小野口順久、撮影佐藤勇と書いてあります。  2025年10月19日記

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