鋸山の遠景である。手前側の業者と山向こうの業者が、それぞれ切っていったので、山はどんどん薄くなってゆき、一番薄いところは1メートルくらいしかないという話であった。石は山頂から、自分の足元の石をつるはしで切るので、どんどん下へ下がって行くそうです。それであのようなまっすぐな、切立った壁面になるそうです。岩脈は斜めなので、場合によっては、周囲にできる壁の方に切り進むこともあり、技術的に難しいそうです。大谷石では、1個80kgの石を切り出すのに3600回つるはしを振るったといいますから、房州石も同じくらいの重さ硬さだったので、大へんな重労働だったでしょう。これをネコ(一輪車)に3本のせ、ふもとに運んだのが女性の仕事であった。



黒っぽく見える小さい蔵は後ろの大きい白い蔵の入口になっている。後ろの大きい方は、房州石の上に白い漆喰を塗っている。前の小さい方は桜目石という最高級のきれいな石を使っているので、石の地肌を見せている。反対側、南の面には大きなこて絵が見えている。テレビでこのこて絵(壁塗りのこてで描く絵)の製作を放送していた。淡路島から来てもらった職人ということであった。写真は白い蔵をぐるっと回って撮っている。



上の写真は重要な写真なので、大きくしています。桜目石のきれいな地肌が見えています。しかし、それより重要なのは瓦です。この瓦どこが重要だかわかりますか。あなたの家の瓦と比べてください。丸いところが違うんです。スパッと切り落としたような平面になっています。その後の時代の瓦は凸レンズのようなふくらみがあります。このような平面の瓦を無地瓦といいます。
私の知るところでは、明治時代の民家でしか無地瓦は残っていないので、今では見ることはほとんどありません。瓦は丈夫でも、その下の垂木や構造材が、腐ったり虫に食われて、建物自体がだめになりますので、建物の保存・改修工事をする際に、新しい瓦や金属屋根に変えられてしまうのです。無地瓦が貴重だと知る人はほとんどいませんので、産業廃棄物として捨てられてしまうのです。
鈴木家のこの無地瓦は、たいへん幸運な瓦です。構造が木材ではないので、腐ったり虫に食われることがありません。さらに、海に近い建物なので、強風や塩害があるので、一枚一枚を漆喰で固定しています。すべての瓦を漆喰で固定しているそうです。石という構造材と、漆喰のおかげで、この無地瓦は元の状態のまま生き残っているのです。奇跡と言っていいでしょう。
ホームページのギャラリーの松戸の旧斎藤家の説明の中で、瓦の明治以降の歴史をすこし説明しています。ちなみに、廣瀬家の明治24年(1891)の板蔵の無地瓦はすべて取り替えましたが、約700枚を保存してあります。



上の写真は、左がなまこ壁です。真ん中の黒い部分は平瓦が入っています。瓦の周りを白い漆喰で止めています。この漆喰がなまこのように見えるのでしょう。蔵の足元が濡れるのを防ぐためですが、大変美しいデザインだと思います。
2枚目は蔵の最上部の棟瓦と巨大な鬼瓦です。棟瓦のサイドのデザインもきれいですね。3枚目は、関東大震災で倒れた建物の鬼瓦だそうです。巨大ですね。以前テレビで、料亭で、古い瓦をお皿代わりにして料理を出す店があるというのを見ました。明治時代の無地瓦は、骨董的価値が出るかもしれません。
黒潮文化というのがあるのを思い出した。鈴木家の先祖は、紀州和歌山から移住してきたという。周辺に鈴木姓が多いという。沖縄から紀伊半島そして房総半島は黒潮に乗ってやってきた人が住むところで、共通した文化があるという説がある。江戸時代までの房総民家の間取りは、他地域の古民家の間取りと違っていると言われるのも、黒潮に乗ってやってきたからだという説である。このあたりを若い学生さんに研究していただくと博士論文になるのではないか。千葉登文会のホームページのギャラリーの中の、安藤家、旧澁谷家、廣瀬家が房総民家の間取りを残している江戸時代の貴重な古民家です。
普段、海の見えないところに住んでいると、海の見えるレストランでの皆さんとの会食は大変楽しいものでした。また行きたいとの声が多かったのもうなずけます。鈴木家ご夫妻、千葉建築士会、ご参加いただいた会員の皆様に感謝申し上げます。 2025年9月記 文責・写真 廣瀬省蔵(写真1枚だけ鈴木家)
2024年(令和6年)11月3日の読売新聞の記事をコピーしておきます

「能登の黒光りする家並は残るのか」 瓦が大事だという話をしましたので、能登地震と能登瓦の話の新聞記事を入れておきます。大きな紙面だったので、上下2枚に分けて掲載します。2024年11月3日読売新聞です。字が小さいときは拡大してご覧ください。


今から20年以上前、平成10年代に、金沢の駅で、レンタカーを借りて、能登半島の七尾市まで行ったことがある。ずっと山の中を走っているように感じたが、七尾に近づくにつれ建物の屋根は黒くなり、黒光りの町が見えてきた。能登地方は、冬は豪雪、夏は暑いということで、寒暖差が大きく、ふつうの瓦では持たないということで、このような黒い瓦が作られたのでしょう。町全体が黒光りしていたことが強く印象に残っています。最近はこうした瓦は使われなくなっているということなので、能登の町の特長がなくなってゆくのが残念です。
無地瓦の歴史について
江戸時代、徳川幕府は武士と寺社以外は瓦の使用を認めていなかった。しかし、幕府の威光は、江戸から離れた地方ではあまり及ばなかったので、関西へ行けば、江戸時代の瓦葺の民家が多数残っている。関東は一般民家は茅葺であった。明治になると、一般民家でも瓦の使用が認められた。しかし、瓦は重いので、遠くまで運ぶことができず、鉄道が普及するまでは、一般民家で瓦屋根は普及しなかった。瓦の産地は、江戸時代三州瓦(三河地方)が有名であった。明治になると、自由に移住することができるようになったので、瓦職人は、全国に移住し、瓦に適した粘土を見つけると、その地で瓦工場を作り、手作業で瓦を生産していった。
このように、重い瓦は明治になってもなかなか普及しなかったので、明治の中頃になって、ようやく一般民家の富裕層が使えるようになったと考えられる。この時代に作られたのが無地瓦である。無地瓦は、丸い面がすべて平面で、薄く軽い瓦であった。当時はひっかけて止める桟瓦ではなく、野地板の上に土を薄く敷き、その上に置いてあるだけの瓦であった。東日本大震災(2013)のとき、佐原の町は、多くの古民家で瓦が滑り落ちたが、瓦がなくなって軽くなったので、建物が倒壊することはなかった。能登では建物の倒壊が多かったのとは違う点である。ユーチューブで東日本大震災と佐原と入れると、瓦が落ち行く様子が撮られている。無地瓦であれば保存しておいてほしい。
このように無地瓦は、明治中期から、たぶん桟瓦が出てくるまでの、短期間しか存在しなかったのではないかと思われる。登録文化財廣瀬家の無地瓦は明治24年(1891)で鈴木家は明治35年(1902)である。まさにこの短期間の瓦であり貴重である。
ついでに無地瓦の下に敷かれた土についても触れておく。このころの土は荒木田土といわれ、荒川の河口でとられた土で、粘り気があって、壁土としても最高の土といわれている。現在では、採取が少なくなったが、川越あたりの荒木田土で大相撲の土俵やピッチャーズマウンドが造られている。