令和になって、なくなってしまった貴重な建築を記録として残しておきたい。この写真の建物は令和に入って取壊され、今はアパートになってしまった建物である。この建物は大正15年に建てられた。すぐ前の道路は国道14号千葉街道であるが、昭和40年代に埋め立てられるまでは、浜道と言われすぐそこが浜辺で、波が強いときは、波に洗われる道路であった。構造は房州石を積み重ねた石造で、表面に煉瓦が貼ってある。詳しい調査がなされていないので、内部構造の詳しいことは不明である。
房州石の産地である金谷周辺以外で、房州石の建物は珍しい。この右側に房州石の蔵があったが、戦後まもなく取壊され、アパートになっている。その写真は鋸山の房州石記念館に残っている

大正15年にこの建築を建てたのは、三代川長吉という人物である。こんな石造の建物を建てたのには理由がある。大正6年9月30日の深夜に東京湾の上空を台風が通過した。台風の低気圧により海面が持ち上げられ、強風により3mから4mの暴風津波が発生し、東京湾に面する千葉県、東京都、神奈川県で、大規模に建物が流失する被害が発生した。各地の図書館に行けば、市史などに被害を調査した記録が残っている。現在の国道14号の両側にあった建物はことごとく流されたと記録されている。

さらに大正12年には関東大震災があった。長吉は、当時舟・鉄道で東京に物資を運んでいたので、震災後の東京の悲惨な状況を見てきていた。そこで長吉は地震にも津波にも耐える建物を建てようと決意したのであった。
長吉の長女三代川とみはその後津田沼町の公務員瀬山卓三と結婚したので、この建物の表札には、取壊されるまで、瀬山卓三の表札が掛かっていた。瀬山とみは女子師範卒の秀才で、津田沼町・習志野市の教育行政に深くかかわった名士であった。図書館には彼女の自伝が残されているので、この建物の歴史をより深く知りたい方は、自伝をお読みいただきたい。
登録文化財廣瀬家は、明治から大正時代にかけて、自宅で漢学塾を開いていたが、三代川長吉は、その一番弟子で、最も優秀な門弟であったと伝わっている。
2025年9月記 文責・写真 廣瀨省蔵

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